長谷川の物語
健太郎と慶子がはじめに出会ったのは、「あいつ(宮部)は海軍一の臆病者だよ」と言い張る長谷川でした。
「俺は国に命を預けていた」「あいつは俺が腕をなくした日でも、無傷で帰ってきた」「帝国軍人の恥さらしだ!」と嫌悪感をあらわにしました。
映画では長谷川の若き姿は映像として出てきません。
原作では、長谷川が口減らしのために奉公に出されていたこと、腕を失ったためにその後の人生も苦難の連続だったこと、戦争中に死にたかったことを語る描写もあります。
井崎の物語
井崎が語ったのは、宮部が着艦を簡単に成功させる優れたパイロットであること、「私は死にたくありません」ということばに嫌悪感を覚えたということでした。
宮部は皆が戦闘の成果を喜んでいる中、ただひとり「敵の空母がいませんでした。未帰還機が29機もでました。空母を叩かなければまた誰かが死にます。私の目の前で、一瞬で3人の命が奪われました」と冷静に戦況を見つめていました。
井崎はそのとき海軍は戦況を見誤っており、宮部の言うことが正しかったと語ります。
ミッドウェー海戦が起こったときも、宮部は海軍がいったん魚雷を取り外したことに「先手をうたなければだめだ、こんなときに攻撃されたらひとたまりもないぞ」と憤りました。
そのことばどおり軍は攻撃され、壊滅的な被害を被りました。
宮部は正しい判断をしていたのですが、仲間から疎まれていたのは変わりません。
宮部は戦闘機の点検にも細かいことを言うために整備師からも煙たがられ、「私ひとりが死んでも戦局は大きく変わりません。しかし、妻と娘の人生は大きく変わってしまいます」と生きたい理由を口にします。
現代の井崎は「今の感覚ではわからないかもしれないが、その当時では『生きて帰りたい』というのはとんでもない考えだった」と振り返りました。
宮部らラバウル航空隊は、ソロモン諸島の戦いに挑むことになります。
しかし、海戦の場所は560海里(1037km)も離れており、宮部は「たどり着いたところでとても闘えるような状態ではない」と反対をします。
しかし、「士気を下げるな!」とその提案は却下されることになりました。
この宮部のことばも事実でした。
5時間後、好戦的な男・小山(上田竜也)の機は燃料がわずかとなってしまったため、ガタルカナルで潔く自爆をすると合図をします。
しかし、宮部は「なんとか帰還しろ」と合図をします。
小山の機は海上に着水し、このまま救助を待つのみかと思われました。
しかしー
救助隊がかけつけたとき、小山の姿はありませんでした。
周りには、フカ(サメ)が泳ぎ回っていたようです。
井崎は宮部に質問します。
「なぜあのまま潔く自爆させてやらなかったのですか?小山はフカに食べられるより、敵地で華々しく自爆した方がずっと幸せだったはずです!」と。
宮部の回答はこうでした。
「死ぬのはいつでもできる。生きるために努力をするべきだ!井崎、お前に家族はいないのか?家族はお前が死んでも悲しんでくれないのか?」
井崎が「いいえ」と言うと、宮部は張り裂けんばかりにこう叱りました。
「それなら死ぬな!どんなに苦しくても、生き延びる努力をしろ!」
そのことばは井崎の心の底に残ります。
井崎がマリアナ沖で撃墜され、陸まで7時間以上かけて泳ぎきるとき、このことばがよみがえってきました。
井崎は「私がいままで生き延びたのは、宮部小隊長のおかげです」と振り返ります。
晩年の井崎は末期がんに冒されていました。
彼は、余命が3ヶ月だったはずなのに、半年以上たった今でも生き延びていました。
それは、この物語を宮部のお孫さんたちに伝えるためのだと確信しました。
原作では、ガタルカナル島の陸軍兵士が飢えに苦しんでいたこと、兵がいかに道具のように扱われていたかが事細かに書かれています。
原作にしかないエピソードに、ひとつ重要なものがあります。
実は、宮部はパラシュートで落下する無抵抗の敵を撃ち落とした事実があるのです。
このエピソードを映画で省いたのは正解だったと思います。宮部に猜疑心ばかりを持つ原因になってしまうでしょうから。
なぜ「どんなときでも生き延びること」を優先していた宮部が、無慈悲にも落下するだけの敵を撃ち落としたのか?
その答えは、ぜひ原作を読んで確認してほしいです。
*こちらでもその答えを知ることができます→<ガダルカナルと飛行機乗り 英考塾>
武田の物語
学徒出陣がなされていたとき、武田は宮部の小隊に配属されました。
しかし、宮部はなかなか出撃のための「可」をくれようとはしません。
武田の同期たちも「永久に戦場にはでれないんじゃないのか?」「俺たちが上手くなるのが気に入らないのか?」と不満をつのらせていきます。
しかし、それは間違いでした。
部下の伊藤が機の故障により亡くなったとき、中尉は「あいつはたるんでいた。貴重な戦闘機をつぶすとは何事か!」と告げました。
宮部は「それは違います。伊藤は勇敢な男でした」と反発しました。
中尉は宮部を殴り、「お前はずっと『不可』を出し続けているらしいな、こいつらを戦地に行かせたくないのか」という宮部の本音を言います。
武田たちは、殴られて脹れた顔になった宮部に、心からの敬礼をしました。
武田は「あの人こそ生き延びるべき人だった」とつぶやきます。
健一郎が「司法浪人中で・・・いや、ブラブラしています」と我が身を振り返ったとき、武田は「大丈夫だ、あなたはあの宮部さんの血を引き継いでいる。きっと素晴らしい仕事を成し遂げる。宮部さんの孫にこんなことを告げる日が来るとは思ってもみなかったよ」と言ってくれました。
ちなみに、原作では武田は誤った見識を持つ新聞記者を叱る人物でした。
(あの「敬礼」のシーンは映画オリジナルです。
原作では、宮部の行動に感銘を受け、戦闘中に宮部を守ろうとする部下たちの姿が描かれています。
景浦の物語
元・ヤクザの景浦もまた「無傷で戻ってくるやつの存在が憎かった」と、宮部のことを語りました。
景浦は戦闘中に宮部と撃ち合おうとします。
しかし、宮部は「左捻り」で巧みに景浦が撃った弾をかわします。
宮部は景浦の機の後ろに回りますが、景浦を撃つことはしませんでした。
そのときから、景浦は死ぬことを怖く感じるようになりました。
景浦は、九州の基地で宮部と再会します。
そのとき宮部は「彼岸に片足を突っ込んだ」ような容貌になっていました。
宮部は景浦に自分の教え子のことを語ります。
「あれが特攻です。今日逝ったのも私の教え子でした。それを私は毎日のように見てきました。誰ひとりとして敵機にたどり着きませんでした。皆こんなところで死ぬ人間じゃなかった。俺は何もしてやれなかった!」
景浦は「仕方がなかったと思います」と言いますが、これに宮部は激昂します。
「直掩機は自分が盾になろうとも、守るのが務めだ!俺は守るべき彼らの犠牲の上に生きている!」とー
何よりも「生きて帰る」ことを希望していた宮部が、ここでは自分が生きていることを否定的に言うのです。
特攻は死を前提にした攻撃です。
景浦もまた、「こんな自爆作戦で死ぬのは無駄死にだ」と語りました。
宮部は最後の生き残る希望を断ち切っていました。
死ぬ前に、宮部は戦闘機を乗り換えており、乗り換える前の戦闘機に乗った男は機の整備不良のために生き残っていたのです。
景浦は「わしは若い男が好きでな」と優しく健太郎を抱き寄せました。
景浦は、宮部が若い人たちの命を大切にしていたことを受け継ぎ、そう言ったのでしょう。
(ここはもうちょっとギャグっぽくしてもよかったのにね。あまりにホモホモしい台詞だし)
健太郎は景浦の名簿を読んで驚きます。
宮部の代わりに生き残った男は、今の健太郎の祖父である大石賢一郎だったのです。
また、景浦は後にやくざに売り飛ばされそうになる松乃(宮部の妻)を、刀を振りかざして守っていました。
景浦が家で「その刀は血ぃ吸っとるぞ」と健太郎を脅していたのは、いい伏線でした。
大石賢一郎の物語
弁護士であり、健太郎の祖父である賢一郎は武田と同じように、事故で亡くなった伊藤の名誉を守ってくれたことに感謝をしていました。
賢一郎は「戦争が終わったら、何でもいいから人の役に立つ仕事がしたいです」と宮部に夢を語ります。
宮部は「そんな日が来るといいですね」と微笑みました。
賢一郎は川辺で「不思議です。風がなびき、水が冷たい。そんな当たり前のことが愛おしく感じます。死んだあとのことなんて考えていませんでした。この日本が続いていってほしい。何年後、何十年後、日本はどんな国になっているんでしょう」と宮部に聞こえるようにつぶやきました。
宮部は「最後のわがまま」として、賢一郎に「乗り馴れた機で闘いたいので、機を変わっていただけませんか」と頼みます。
戦闘後、賢一郎は機に残されてあった手紙を見つけます。
そこには「もし君が生き残っていたら、私の妻と子どもが苦しんでいたら、助けてやってほしい」と書かれていました。
賢一郎は大阪のバラックに向かい、そこで宮部の妻・松乃と出会います。
賢一郎は松乃と子どもが最低の暮らしをしているのを寂しく思います。
松乃は宮部の死を聞いて「あの人の運命だったんです」と言いますが、賢一郎は「偶然とは思えません」と、宮部からの手紙を渡しました。
松乃はそれを受け入れることができず、「出て行ってください」と賢一郎に頼みました。
賢一郎は松乃の拒否にめげず、何度も、何度もバラックに通い詰めます。
いつしか松乃のところに行くことは、賢一郎の生き甲斐となっていきました。
賢一郎は、はじめて会ったときから松乃に恋こがれていたことを告白しようとしますが、「私は汚い人間です」と去ろうとします。
松乃は、そんな賢一郎の袖をつかみ、「あの人は約束を守ったんですね」と確かめるように言いました。
宮部は戦地に旅立つ前に「私は必ず戻ってきます。たとえ死んでも、君の記憶とともに戻ってきます」と妻と約束をしていました。
宮部は亡くなりましたが、宮部の意思を引き継いだ賢一郎は戻ってきたのです。
ふざけた合コン
健太郎の友達が合コンを開くシーンは不愉快でした。
彼らは「特攻なんてものは無差別テロだ」「お国のために死ぬだなんて遺書を残すのは安っぽいヒロイズムだな」「俺たち特攻と無差別テロが違うとかどうでもいいし」などと言うのです。
原作でこの批判をするのは朝なんとか新聞大手新聞会社の男なのですが、なぜその役目を若者に押し付けてしまったのでしょうか。
この若者たちが言う「知ったかぶり」を悪とするのは納得できます。
「ダーリンは外国人」で有名になったトニー・ラズロさんは「無知は罪にならないが、知ったかぶりは大罪だ」と言っていました。
知ったつもりになり、それ以上知ろうとはせずに批判をするのは、確かにしてはならないことでしょう。
しかし、本作は「若者に知ってほしい」という気概に溢れている作品なのです。
この若者を悪者にした描写は、戦争を知ろうとしている若者に後ろ足で砂をかけているようにしか思えません。
また、「特攻は対象者が決まっているから無差別テロとは違う」という見識は伝えられますが、「お国のために死ぬ安っぽいヒロイズム」については映画でその真実が語られることがありません。
原作では、遺書にも軍隊の検閲があり、「誰もお国のために死にたいと思ってはいなかった」と景浦が激昂しながら語る場面があります。
なぜ間違ったことを提示しておきながら、それを正そうとしないのでしょうか。
この描写が納得できない方は、ぜひ原作を読むことをおすすめします。
また、合コンの話に「サイパン行きたいよね〜」『俺はハワイ!」とか出てきて、それに健太郎が怒って帰るのもどうかと・・・
健太郎は協調性はなさすぎだし、これは明らかに「無知」であることを軽蔑した描写でこれまた不愉快でした。
ちなみにエンドロールでは、某新聞社の名前が思い切り出てきます。あーあ。
ほかにも不満点
健太郎がゼロ戦がビルが建ち並ぶ街中を飛んでくる幻を見るシーンはどうかと思います。
あれじゃあゼロ戦が街中で墜落しかけているようにしか見えません。
自分は全然気づいていなかったのですが、井崎の物語中に、宮部が松乃の待つ家に帰っているシーンが出てきたようです。
あれは井崎の「回想」なので、本人が知り得ないことが出てくるのはおかしいことです。
原作では健太郎が再び司法試験の勉強に挑む姿が描かれるのですが、映画では描かれません。
映画でも戦争の勉強をするシーンがあるので「成長」は垣間見えるのですが、健太郎の「その後」を予感させる描写がなかったのは残念でした。
原作では健太郎が「景浦が松乃を救った」ことを気づく描写があったのですが、映画では晩年の賢一郎が「あれは誰だったんだろうなあ」と言うだけでした。
映像でも、景浦が松乃を救う姿が見たかったですね。
時間の制約上仕方のないことですが、原作にあった知的障害を持つ妹がいる「岡部」の話や、アメリカ兵がヌード写真を持っていたエピソードも観てみたかったですね。
原作は敵であるアメリカ兵の描写があり、より作品に奥行きを感じられるはずです。
なぜ宮部は特攻を選んだのか?
これは本作で最後まで残る、大いなる謎です。
特攻は赤紙と徴兵された者とは違い、自ら志願して死に向かった者です。
誰よりも生きることを願っていた宮部がそれを選んだのは、確かに不可解です。
作中から考えられるのは以下でしょう。
①教え子の犠牲の上に生きていることが耐えられなかった
②自分が志願し、機を交換することで大石賢一郎を生かそうとした
③特攻が成功し、自分も生き延びる自信があった
①は景浦の物語ではっきり描写をされていることなので、もっとも納得できる理由です。
これは原作では健太郎が理由としてあげ、姉の慶子が「違うと思うわ」と否定をしたことでもあります。
②は妻との約束を果たそうとするためであるので、ある程度は納得できます。
③はちょっとしっくりしません。
特攻は死が約束された、作戦とも呼べない代物なのですから。
これは観た人それぞれが「理由」を考えることなのでしょう。
参考→<宮部久蔵はなぜ特攻に行ったのですか? – Yahoo!知恵袋>
微笑み
本作で批判を浴びることがもうひとつあります。
それは、ラストカットの宮部の「笑顔」です。
この描写は原作にはありません。
これでは「反戦を訴える内容だったのに、最後に好戦的な映画になってしまった」と嘆く人がいても仕方がないのではないでしょう。
(もちろん、これが「特攻して敵を殺せる」と知ったための微笑みとは限らないのですが)
なぜ宮部は笑ったのか。
それは、生き延びるであろう賢一郎をはじめとした「次の世代」への希望のためかもしれません。
*以下のご意見をいだきました
私は、宮部が特攻隊を自ら志願したのは、空母に一撃も与えることができず死んで行った自分の教え子たちの無念の為だと思いました。
もちろんそれ以外のたくさんの思いもあったと思いますが・・・誰よりも命を重んじていた宮部が、絶対に生きて帰るという強い思いと葛藤し、最後に、自分の手で空母に一撃与えるという道を選んだのでは。
普段から整備にこだわっていた宮部は、エンジンの異常に気づき、自分の命を救ってくれた大石に大切な家族の幸せを託して、万全な機で向かった、ととれました。
最後に笑ったのもそういった思いがあったのかな、と。
*以下のご意見もいただきました
私には、あの宮部久蔵の笑みは彼のホンネだと感じました。
彼は特攻をしたかったんです。
空戦の達人として不可能に立ち向かい成功してみせたかった。
彼はきっと生徒達が撃ち落とされるたびに考えていたのでしょう。
「アイツが撃ち落とされたのは何故なのか?アイツが気付かれてしまったのはどうしてなのか?いったいどうすれば近づけるのか?どうすれば迎撃を防げるのか?どのコースを進めば敵に致命傷を与えられるのか?」何度も何度も、気が狂うほどにシュミレーションを繰り返していた。
一つの道に身をやつしたものなら、その為には命すら投げ出しても悔いはない。
あの笑みは、必死に押し殺しながらもかみ殺せなかった笑み。
「まだ成功したわけではない、達成したと決めつけるには早すぎる」と自省しながらも、沸き上がってくる達成感を押さえきれず思わず出てしまった自分への笑みだと感じました。
彼は戦いたかったんだ。
妻や子供のことが無ければ、そのホンネは自ら血反吐を流して身に付けた技量を縦横無尽に達成したかった。
戦争と考えれば否定しおぞましいものだと決めつける。
それは戦後の価値観です、彼等が我々と同じであったハズはないし、本当の戦争を知らない我々がその真実を知っているわけもないのです。
私には「あのラストシーンに限っては原作を越えた」と感じました。
メッセージ
現代の賢一郎はこう言っていました。
「わしが生き残ったのは、死んだ者の死を無駄にしないためだ。物語を続けることだ。あれ以来夫婦の間で宮部さんの話が出たことは一度もないが、忘れたことも一度もない」
「あの時代、一人一人の物語があった。今は何事もなかったかのように生きている。それが戦争で生き残ったということだ」
「私たち戦争を知る者は、あと10年もすればみんないなくなる。この話を、お前たちに伝えられてよかった」
このことばこそ、制作者(原作者)が伝えたかったものでしょう。
賢一郎を演じていたのが、亡くなられた夏八木勲さんであったので、それは「遺言」のようにさえ聞こえました。
全ての話が終わったとき、今までの登場人物がそれぞれの想いを語りました。
これも、「戦争を生き抜いた者は、それぞれの物語」があることを示しています。
最後に、健太郎は街中でいろいろな家族を観ます。
その光景は、戦争を生き抜いた人たちがいなければなかったものでした。
宮部は臆病者とされていましたが、健太郎は物語を聞き、そのほんとうの姿を知ることができました。
戦争を生きた人々の物語が、これからも受け継がれていくことを望みます。
少々否定的な意見↓
【ネタばれ】「あげられて及第点。傑作ではない。」 ユーザーレビュー – Yahoo!映画(原作のネタバレ注意)
「無念!!の、一言(T_T)」 ユーザーレビュー – Yahoo!映画
肯定的な意見↓
【ネタばれ】「素晴しい微笑みでした」 ユーザーレビュー – Yahoo!映画
【ネタばれ】「死者の「物語を紡ぐ」今年最高の反戦映画」 ユーザーレビュー – Yahoo!映画
いろいろな意見(否定的なもの多数)↓
永遠の0 – みんなのシネマレビュー
chat_bubbleコメント
魚卵⇒魚雷ですね。
チョット、長かったように思いますね。
取り分け、最後の宮部家族を援助するパートと、あの最後の飛行機シーンはいらないように、思いました。
日本のCGも、良くなりました。
ご指摘感謝です。訂正します。
> 取り分け、最後の宮部家族を援助するパートと、あの最後の飛行機シーンはいらないように、思いました。
原作の幕切れは好きなのですが、映画はちょっと・・・
あそこでブラックアウトしてタイトルが出る演出は好きなのですけどね。
特攻に関しては諸説あり、「爆弾を操縦するんだ百発百中だろ!」な脳筋理論だったという説もあれば、「追い詰められた者の恐さを戦勝国に刻み付け、戦後の講和を有利にするため」という説もあるそうですね。
また、景浦さんのように大量の直掩機を付けても殆ど敵艦に届かなかった特攻を戦術として否定して別の方法で戦果を上げた「芙蓉部隊」という人達の活躍もあったそうです。
>夢幻の軍艦 大和
イタい程に現代っ子な主人公が山本五十六提督始め、当時の人達へ影響を与え与えられて行くが所が好きでした。
>戦闘の描写は、CGであることを忘れさせるクオリティ
映画のテーマに対して不謹慎かもしれませんが、やはり戦う零戦には興奮してしまいました・・・。
>中尉は「あいつはたるんでいた。貴重な戦闘機をつぶすとは何事か!」
当時は常識だったのでしょうが、現代の一個人として言わせてもらえれば「せめて戦場で死にたかったろうに・・・」と言ってもらえる方が残った訓練兵達の士気に繋がると思うのですが・・・
>原作でこの批判をするのは
実は身近でこんな人を見た事があるので「まあ、こんな人もいるしね・・・」と流せた(当時は私も強く言ってしまいましたけど)のですが、そうだったんですか!?原作未読ですが憤慨しています!!何処に気を使って観てほしい層の観客を不快にさせているんだ・・・。
>生き延びるであろう賢一郎をはじめとした「次の世代」への希望のためかもしれません。
自分も違和感がありましたが、ヒナタカさんの説を推します。
>原作は敵であるアメリカ兵の描写があり、より作品に奥行きを感じられるはずです。
今後は松本零次先生の「ザ・コックピット」「戦場漫画シリーズ」も映像化して欲しいですね。あの当時のいろんな国の兵士達と兵器達を反戦でも戦争美化でもなく描いた傑作だと思っています。
実は特攻隊の話もありアニメ化されています。機会があれば探して観てください。
原作を読み、映画化が決まってから公開まで、永らく待ちました。
健太郎と慶子はイメージ通りの人が演じてくれました。私の宮部のイメージは西島秀俊で、映画化するなら年齢や風貌的に藤原竜也か向井理のイメージで、岡田准一は意外でしたが、いざ観たら違和感ありませんでした。
宮部と大石の川での会話が印象的です。水が冷たい、草がそよぐ、どうでもいいことと思っていたのに、もうすぐ死ぬことが決まってみると、どれも愛おしく思える(今当り前に生きていることが、どれだけ貴重なことか)。自分がいなくなった後も日本が続いていってほしい・・・と国と、愛する人々を思う気持ち。永遠の「0」とは、「零」戦や戦争の記録と、家族や未来の子孫や未来の日本人への愛情「0・ラブ」の両方を意味しているのだと思いました。
映画化の宿命かも知れませんが、原作を2時間ちょっとにまとめるのは難しいですよね。景浦が松乃を助ける場面は私も観たかったです。現代の景浦の部屋の刀に「人の血を吸っているぞ」で集約して済ませましたね。
飛行服姿の宮部が松乃を迎えにくる場面もあるのかと思っていたのに無かった。ただここは原作でも私にはよく分からず、映画で三人の関係を表現するのは難しいだろうと思いました。
原作では宮部が松乃を迎えに来て、多分健一郎は宮部の松乃への愛の強さと二人の夫婦の絆をみて感動?しつつ、自分の入る余地はなかったのだと改めて感じたり、松乃が亡くなる淋しさなどが入り混じって号泣したのだと思いました。
松乃にとって健一郎はどんな存在だったのか?松乃にとって夫は生涯宮部一人だったのだろうか?健一郎を通して、いつも宮部を見ていたのだろうか?
もし宮部の代役だったとしても、健一郎のほうは元々宮部に松乃を託されて来たのだから、最初からそのつもりでいたとしても、出あってすぐから一人の男性として松乃を愛していた。生涯身代わりの域にとどまっていたのだとしたら、健一郎にとって、口にはしなくても辛く感じることが多々あったかもしれない。それに健一郎もあの世に行ったら、三人の夫婦関係はどうなる???
って、そこまで考えたら野暮?松乃を演じる女優さんも必要になるからカットになったのでしょうか。
宮部が持っていた松乃と清子の写真は、映画では清子の手元に戻りましたが、原作では最後まで宮部が持っていて、写真とともに米兵に葬られるまでが大事だったのにと残念です。敵でもお互いに人として、ましてや優秀で勇敢な零戦パイロットとして敬意を示す場面。実際の戦場ではそんな美談ばかりではなかったでしょうが、映画だからこそ尚更あってほしい場面なので、撮影や演出が難しいだろうけど撮って欲しかったです。
宮部の遺体は原作通りは悲し過ぎるので望みませんが、見るに耐える程度の損傷に抑えても監督の意向でNGだったのでしょうか。それで関連する米兵の持っていた妻の写真の場面もカットになったのかな。敵同士でもそれぞれに愛し愛される家族がいる人間同士なのだ、という大事な場面なのに惜しいです。
某新聞社批判が無くなっていたことも同感です。公式HPで新聞社の青年の役が無かった時点でカットだろうと予感はありましたが、当日買ったパンフを見て製作委員会に某新聞社がちゃっかり名を連ねていて、介入しやがったな~と嫌な予感が。そして映画では安易な若者批判に変わっていた。今時の若者を悪者にすり替えていましたね。時間の都合上、エピソードや登場人物を絞る必要があったにしても残念で消化不良の気分です。原作本が売れているようなので、多くの人に気づいて欲しいです。
悲しくなってしまうので戦争映画は見たくないのと、戦勝国よりの間違えた史実があるとがっくりしてしまうので見に行きたくなかったのですが見にいってみます。原作も買います。戦争って悲しい
キリスト教も殺戮の歴史 昔からいつも人類は殺しあい
悲しいが他国のスパイだらけで核がない国はやられてしまうだろう
地球にとって人って空気も汚し迷惑だ 自然こそが神
過去の教訓を生かし侵略されないためには防衛を
今ある幸せは
日本を守るために戦ってくれた方のおかげです。感謝
誤:健一郎
正:賢一郎
失礼いたしました。
原作は知りませんでしたが凄く楽しめました。
ただ、現代の描写が残念でした。現代に戻る度にゲンナリ。
健太郎はいいからお爺さん達の話をもっと聞かせろとかずっと思っちゃってw
>「永遠の0」は若い人が戦争を知る足がかりになることにおいて、確かな意義があります。
>学校で習う歴史は「暗記」であり、「面白さ」は優先されていません。
>しかし、この物語には並外れた面白さがあります。
>自分も学校の歴史の勉強を面白いと感じたことはほとんどないのですが、
>永遠の0」の物語に触れたあとは、戦争のこと、当時の人々のことをもっと知りたくなりました。
>この「面白い、だから知りたい」と感じることは、どの勉強や仕事においても重要なのではないでしょうか。
しかし歴史学の識者や映画評論家からはあまり好評価を得ていなかったりするんですよねぇ…
子供の頃、祖母から戦時中の話を聞いたり、
学校でドキュメンタリービデオを真面目に見ていた僕からすれば
この映画はあまりにフィクション過ぎて胡散臭くて仕方がありませんでしたね。
九州の大刀洗とかに特攻隊の隊員の親にあてた手紙 達筆でいまの10代の若者とは思えないしっかりした字を残してこの世を去っていくさまに涙がでます
自分が指導をした隊員達が虚しくも途中で相手の空母に撃ち落される役目を果たさずに無駄死にしていくざまを目の前に見てきて 最後は自分がみんなの願いを背負って弾を避けながら相手の空母に突撃するシーンは目にみはる物がありました
最後のにやりの笑いはそんな意味が入っているような気がします 家族の願いを自分助けてもらった隊員にたくして 無念にも特攻を旗せなっ買ったみんなの願いと魂をゼロ戦に乗せて絶対無駄死にさせない思いを乗せて水面をぎりぎりに飛んで行く神業のような運転で敵の空母に体当たりしていく 鳥肌がたってきました でもこのような素晴らしい人達が命をおとさせた日本は大馬鹿物です 飛行機の設計士とかも赤紙をだすなんて そもそも特攻隊 人間魚雷を考えた人達はいったい命の尊さをどう思っていたのでしょう 才能ある若者がこんなに虚しく散って行く桜の花のように咲いたと思ったらすぐに散って行く もっともっとず~~っと綺麗に咲きたかった 一瞬の花火のように煌めきの中に去って行くその姿は 日本の才能の終わりを思わせるような気がします
私の母も昔学校の同級生の男の子が兄が特攻隊でいって亡くなって自分のお国の為に特攻隊に志願するといった時にほっぺたをビンタして止めさせたそうです
その家の子孫がその男の子一人なっていたそうで家の服を作る仕立て屋の後をづぐ物がいなくなるのを考えて男の子にいいきかせて特攻隊を止めさせたそうです
今は店を付いてやっているそうですが その時に特攻隊で命を落としていたらと思うと 生と死の分かれ道の狭間にいた本当に分かれ道だったと思います そんな物語を背負っている戦争を経験した人は数限りなくあると思います
初めて映画館のなかで号泣しました。まわりの方も泣いている方が多かったです
戦争映画は嫌いで見に行くのが厳しかったのですが 本当に行って良かったと思います
この映画を作った会社にありがとうございます
ようやくこういう映画ができる時代となりました
ネット右派ですが変な描写もなかったように思えます
ちょっとだけホモっぽいのが、、
これからの若い世代を応援している
位の言葉が良かったかもしれません
原作もすぐ買います
原作本を読んだが最高だ
戦争を煽ったのが朝○新聞と記者
戦後に日本をだめにしたのも○日新聞社
同感だしぜひ皆さんに原作を読んでほしい
日本人必読書
↑
こうした思考が嘆かわしい。
プレスを批判するな、というのではなく、プレスのせいにして納得するな、と言いたいです。
久蔵はロジカルかつ戦略的な人間でした。
それは即ち、空虚な理屈を由とする態度へのアンチテーゼだと私は見ています。
新聞が世の中を煽ったことは事実であろうし、それは非難されるべきだろうとも思います。
ただ、それで終わってはならない。何故に煽られたのか。そして、何故に煽られて、かつ、悪い方向へと向かったのか。
それが見えなければ、私たちは過去からも久蔵からも何も学べないことになります。
念の為。プレスを信じるな、というのでもありません。
プレスを無視したり敵視したりという態度ほど愚かな行為はないと考えています。
何故ならば、上の書き込みをされた方が(それが正当かどうかは別として)「煽った」とか「だめにした」などと呼ぶほどの力を持っている存在なのです。
それほどの力を持つものであるならば、使わぬ手はないと考える。それがロジカルで戦略的な思考であると、私は思います。
私は、宮部が特攻隊を自ら志願したのは、空母に一撃も与えることができず死んで行った自分の教え子たちの無念の為だと思いました。もちろんそれ以外のたくさんの思いもあったと思いますが、、。誰よりも命を重んじていた宮部が、絶対に生きて帰るという強い思いと葛藤し、最後に、自分の手で空母に一撃与えるという道を選んだのでは。普段から整備にこだわっていた宮部は、エンジンの異常に気づき、自分の命を救ってくれた大石に大切な家族の幸せを託して、万全な機で向かった、ととれました。最後に笑ったのもそういった思いがあったのかなーと。本当に素晴らしい作品でした。映画しか見てないので小説も読んでみようと思います。
> 私は、宮部が特攻隊を自ら志願したのは、空母に一撃も与えることができず死んで行った自分の教え子たちの無念の為だと思いました。もちろんそれ以外のたくさんの思いもあったと思いますが、、。誰よりも命を重んじていた宮部が、絶対に生きて帰るという強い思いと葛藤し、最後に、自分の手で空母に一撃与えるという道を選んだのでは。普段から整備にこだわっていた宮部は、エンジンの異常に気づき、自分の命を救ってくれた大石に大切な家族の幸せを託して、万全な機で向かった、ととれました。最後に笑ったのもそういった思いがあったのかなーと。本当に素晴らしい作品でした。映画しか見てないので小説も読んでみようと思います。
なるほど、ぜひ本文にも追記させてください。
ビルの中を飛び去って行ったゼロに乗っているのは
末期ガンのおじいちゃんでは?
視線をくれるのと、
背景に病院の看板がある
ゼロの模型を手許に置いてたのはあの人だけ
他の爺さん達には死亡フラグがない
ゼロに乗って行った人が戻ってくるはずがない、
でも乗って旅立つ人なら?
と思いました
2回目 見に行ってしまいました 最後泣きました 嗚咽 涙
今、原作者の百田さんが激しくテレビで批判されています
NHk委員に百田さんが新たになりました
マスゴミにパッシングされて本の売り上げも落ちているようです
ネット対既成マスゴミ
従軍慰安婦も○日新聞の記者から始まりました
戦後レジームからの脱却は覚悟がいります
原作本を買って百田さんを支援したいです
たしかに厳しくいえば 空中戦で上で傍観しているのは史実では不可能なかったかもしれません アマゾンレビューでもそこをついてくる辛口のコメントもあります が左派、右派ともに見れる映画として最初の一歩だと思いました。暗い画面でもなく日本軍を完全な悪と書き連ねているものでもなく とても見やすく元気が出る映画となっています。ひいおじいさん達が守ってくれた日本 ありがたい事です 日本人に生まれて恥ずかしかったと今まで思っていましたが 今では日本人とはとても優しく弱き者を助け道徳心強く世界に誇れる民族なんだと確信しています 日教組の洗脳は強烈です
日の丸を見るだけでなんだか嫌な気持ちがしていました。今は日の丸をみても
((;゜Д゜怖い
とかんじなくなりました
("⌒∇⌒")
日本国が大好きになりました
自分としては、マスコミを怒るシーンはカットして正解だと思います
理由は、あまりにも唐突で不自然だと感じたことです
原作しか読んでいませんが、自分はこのシーンは主人公のプライベートに新聞記者が首をつっこんだ事で火傷したという印象を感じました
しかし、後に姉から考えを改めたと言うことを聞くシーンで余計に疑問の念を感じました
なぜ、そのシーンを描写しないのかと思いました
まるで、マスコミが元凶だという印象操作的な意図を感じました
制作者もそこが気になったのではないかと思います
ココ以外も作者の主張としか思えない部分がいくつかあります
確かに、武田さんの言うことには正しいと思います
しかし、上のコメントがあるようにマスコミに責任を押しつけるだけでは、旧日本軍のように過ちを繰り返すだけ
なぜ過ちを犯したのか、それを避けるにはどうするべきかを考え、実行するべきだと思います
今は、ネットなどマスメディアに対して、検証することが容易な時代だと思います
すべての情報に対して、何割かの疑念を持ち、それに対する裏付けを怠らない
これが重要ではないかと思います
もちろん、永遠の0が提示する情報に対しても同じ事
PS
映画での合コンのシーンはブログの文面からすると確かに変ですねぇ
ここは別の形で描写できれば、いいだと思いますが……
私には、あの宮部久蔵の笑みは彼のホンネだと感じました。
彼は特攻をしたかったんです。
空戦の達人として不可能に立ち向かい成功してみせたかった。
彼はきっと生徒達が撃ち落とされるたびに考えていたのでしょう。
「アイツが撃ち落とされたのは何故なのか?アイツが気付かれてしまったのはどうしてなのか?いったいどうすれば近づけるのか?どうすれば迎撃を防げるのか?どのコースを進めば敵に致命傷を与えられるのか?」何度も何度も、気が狂うほどにシュミレーションを繰り返していた。
つまりは④です。
一つの道に身をやつしたものなら、その為には命すら投げ出しても悔いはない。
あの笑みは、必死に押し殺しながらもかみ殺せなかった笑み。
「まだ成功したわけではない、達成したと決めつけるには早すぎる」と自省しながらも、沸き上がってくる達成感を押さえきれず思わず出てしまった自分への笑みだと感じました。
彼は戦いたかったんだ。
妻や子供のことが無ければ、そのホンネは自ら血反吐を流して身に付けた技量を縦横無尽に達成したかった。
戦争と考えれば否定しおぞましいものだと決めつける。
それは戦後の価値観です、彼等が我々と同じであったハズはないし、本当の戦争を知らない我々がその真実を知っているわけもないのです。
私には「あのラストシーンに限っては原作を越えた」と感じました。
> 私には、あの宮部久蔵の笑みは彼のホンネだと感じました。
>
> 彼は特攻をしたかったんです。
> 空戦の達人として不可能に立ち向かい成功してみせたかった。
それもいい解釈ですね!ぜひそのまま追記させてください。
合コンシーンは、私も大変不愉快でした。
ただしそれはあなたさまとは真逆の意味で不愉快でした。
あの描写だと平和を求めてる人をわざわざ悪のイメージで描いてるとしか見えませんでした。
いまどき、左よりでもああいう馬鹿にする言い方をする人はいませんよ。
特攻隊や戦争が許されないという発言ならする人は多いでしょう。
でもその描写だと作者が納得しなかったんでしょうね。
明らかに右寄りを正当化したい内容にしか見えませんでした。
期待してただけに大変残念です。